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| 「自らをたゆまず改革し続けることによって、力強く、留まることなく発展していく」というブランドシンボル制定のマツダの決意を、未来に向けて羽ばたくMAZDAの〈M〉の形に象徴しています。 |
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| 1975年のCI導入を機に、コミュニケーションの核となる企業シンボルとして制定しました。その後1997年のブランドシンボル制定に伴い、可読性を生かした「マツダコーポレートマーク」と位置づけています。 |
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| 社名「マツダ」は、西アジアでの人類文明発祥とともに誕生した神、アフラ・マズダー(Ahura Mazda)に由来します。この叡智・理性・調和の神を、東西文明の源泉的シンボルかつ自動車文明の始原的シンボルとして捉え、また世界平和を希求し自動車産業の光明となることを願って名付けられました。それはまた、創業者・松田重次郎の姓にもちなんでいます。 |
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マツダは、1920年に「東洋コルク工業株式会社」として創立しています。その頃から蓄積してきた機械技術を土台に、1927年に社名を「東洋工業株式会社」と改め、1931年の3輪トラック生産によって、総合自動車メーカーへ発展する基礎を築きました。
当時搭載されるエンジンのほとんどを輸入に頼っていた3輪トラックの分野で、純国産車にこだわり研究開発に力を注ぎました。戦後においてもマツダの 「技術力の向上が社業発展の原動力である」というゆるぎない信念は引き継がれ、素材部門を中心に基礎技術の研究開発に力を注ぐと共に、鋳造部門の革命といわれたシェルモールド法の導入をはじめ、連続ガス浸炭技術、アルフィン技術、ダクタイル鋳鉄製造技術などの導入、工業化を進めました。こうして培われた技術開発力が、後のロータリーエンジンの開発へと結実していったのです。 |
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マツダは、その発展にあたって広島の地理的条件から数々の恩恵を得てきました。たとえば、広島は多彩な鉄製品加工技術や造船技術の蓄積があり、その技術・技能を持つ人材に恵まれています。また、マツダは北海道などへの車両国内輸送に日本で最初に海上輸送を導入するなど、瀬戸内海に面した立地をはじめとする、広島の交通利便の高さも活用してきました。
地域に根ざし、地域に貢献する。それは創業以来、マツダが培ってきたともいえるものです。
1945年8月6日、広島に原子爆弾投下という悲劇があった日をもって東洋工業(当時)は一切の生産活動を停止しました。会社施設の損害は爆心地から5.3kmと離れていたため軽微でしたが、社員の精神的打撃は深甚なものでした。東洋工業では即座に全施設や医薬品などの全ストックを開放し、全社をあげて被災者の救援活動を行うとともに、翌7日早朝から広島市内4ヵ所に罹災者相談所を設け、従業員やその家族の連絡と救済にあたりました。
また1945年8月20日から約1年の間、会社施設の一部を広島県庁、広島控訴院の司法官庁、NHK広島放送局などに貸与し、一時はマツダが広島における、行政の中心となりました。 |
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