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レーシングロータリーエンジンの飽くなき挑戦 PART1

〜レースの虜になった男の5つの挑戦〜


2024年1月13日、マツダミュージアムではマツダ787B「2023日本自動車殿堂 歴史遺産車」選定記念イベントとして、「レーシングロータリーエンジンの飽くなき挑戦」をテーマにしたトークショーを午前、午後の二部構成で行いました。

午前の部では、ルマン24時間レース(以降ルマン)優勝時の技術監督である松浦國夫さんにルマンを含むマツダのロータリーエンジン(以後RE)によるレース挑戦の歩みを。午後の部では清水律治さんにルマン優勝の感動ドキュメントを中心にお話しいただきました。今回はそのPART1として松浦さんの講演内容をご紹介します。

登壇者プロフィール

松浦 國夫(まつうら くにお)

1956年東洋工業(現マツダ)入社。技能者養成所を経て、RE研究部試験員となり、1964年からレーシングREの研究開発と実践活動に携わる。1990年から3年間マツダスピードに出向、ルマン技術監督を務め、1994年マツダ退職。

1.企業の起死回生を賭けたREによるレース挑戦

※1968年 マラソン・デ・ラ・ルート84時間出場時の様子

私が東洋工業(現:マツダ)に入ったのは1956年です。社内に技能者養成所というのがあって、今ですと、工業高等専門学校ですかね。15歳でそこに入所。構成員約40名の仲間が、三輪トラックの製造に関する知識、技術、技能を習得、半日座学をして午後が実技でした。
3年間、当時の最先端技術や技能、知識を持った講師のもとで全社工場を巡回しながら車づくりの教育を受けました。卒業後は希望したエンジン組立工場に配属され、組立や整備、エンジン台場での試運転などを63年まで担当し、その途中で、上司から「松浦くん、お前RE研究部に行かんか」と言われて、64年に異動。「なんですか、REというのは?」という感じでしたがある先輩からは、「コンパクトでパワフルなエンジン」という話を聞いて「それじゃあ、馬で言ったらサラブレッドですね」というような印象でこの道に入ることになりました。そこから始まってマツダスピードに出向するまでお世話になったのが、RE開発をリードしのちの社長、会長を務めた山本健一氏でした。

REは、61年東洋工業と西ドイツのNSU社・バンケル社との技術提携によって開発が本格的にスタートしました。当時、興味のあった「高出力化」をテーマに研究を担当し、それが後のレーシングREになっていきました。そして66年にはレーシングREの開発が始まります。当時、会社は非常に厳しい経営環境にあって、生き残るためには、REを何とかものにしなければということで開発されたのがコスモスポーツです。

その最初の挑戦は68年西ドイツ・ニュルブルクリンクサーキット(一周28kmのコースを3日半走るマラソン・デ・ラ・ルート84時間)。東洋工業の生き残りをかけた戦いです。当時、業界や世界の学者たちから「REは耐久性がない」というのが世評の中、逆に耐久レースで耐久性を立証しようと私たちに与えられたのが「世界最長84時間レースで絶対完走」という命題でした。
私にとっては生まれて初めてのレースなので、レースのレの字も知らないという状況でしたが、そこで本格的なレースとは何か、レーシングカーとはどういうクルマを作らなければいけないのか、トップワークスチームはどういうものか。海外のチームが、大型トレーラーでどんどん来ていたので、それらを見て、レースの基本を学びました。そして本場で厳しい84時間の完走に成功し、総合4位に入賞、貴重なレース体験を得ました。このレースでの完走がなかったら、ここに私はいなかったし、マツダのREのレース挑戦もなかったと思います。「飽くなき挑戦」はここから始まりました。

2.「勝てないから国内敬遠?」そんな噂をぶっ飛ばせ!

2番目の挑戦は70年から72年の国内認知を狙った国内レースへの出場です。この頃は、世間では「マツダはどうも海外ばっかり行ってレースに出ている。国内ではスカG(スカイラインGT-R)に勝てないからだろう」というような噂があって、その払拭を狙いました。当初はファミリアプレストREクーペで苦戦が続きましたが、72年日本グランプリで見事サバンナRX-3が快勝。以後国内の市販車レースではRE車が上位を独占。国内レースでのRE時代が到来しました。

※1972年 日本グランプリを走行するサバンナRX-3

3番目の挑戦も国内ですが、今度は富士GC(グランチャンピオン)レースでの BMW製エンジン搭載プロトタイプレーシングカーの打倒が目標でした。この時は、石油ショックが73年にあり、トイレットペーパーまで獲り合いになるような事件があって、モータースポーツどころではない世の中の風潮ではありました。マツダも自粛かなというような空気が流れていたのですが、参加することになりました。ただ、市販車から専用レーシングカーに時代が変わったこともあって、結果は出走30台中、RE搭載車の数台がビリ争いをするのがやっとという感じで、どうにもならない感じでした。

そのとき、当時の部長山本健一さんが、我々開発チームに「開発を続けてくれ。レースと量産車の開発はRE車の両輪だ。続けなさい、しかしあまり人も金も出せんが」という山本語録を話され、開発を続けることになりました。そして4年後の77年、富士インター200マイルレースでRE本体の出力性能および独自に進めた車両への適合化技術開発も功を奏して初優勝。以後常勝軍団となり我々は挑戦の舞台を国内からアメリカへと切り替えました。

※1977年 富士インター200マイルレース出場時の様子

3.アメリカRE市場再生を目指した異次元レースとの遭遇。

4番目の挑戦が78年からのアメリカのRE市場再生を賭けたレース出場です。当時、IMSA-GTUレースで最強と言われた日産300Z、ポルシェ911の打倒を旗印に挑戦。ところがそれまでヨーロッパと日本のレースは数多く経験していましたが、アメリカのレースはまったく別物でした。レースはフロリダ半島のデイトナで行われ、78年に勉強もかねて当時のマツダオート東京スポーツコーナーチームと一緒にサバンナRX-3で調査出場。結果は惨敗でしたが、そこで多くのことを学び、翌年の79年には新開発のデイトナ仕様サバンナRX-7で出場しGTU(エンジン3000cc未満クラス)1位、2位(総合5位、6位)、そして82年GTO(3000cc以上クラス)優勝(総合4位)と結果を残し、アメリカRE市場の大復活に大きく貢献しました。

4.世界最大の耐久レース、ルマンへの挑戦

そして最後、5つめの挑戦がルマンです。ルマンはフランスで開催される世界最大の耐久レースですが、マツダはここでロータリーの認知拡大を図ろうと70年から91年まで挑戦しました。ただルマンは、今でもそうだと思うんですが、時代とともにルールが変わるんです。これには非常に悩まされたのですが、でもある意味、未来技術、自動車技術の挑戦の場でした。私たちが始めた頃は、走る、曲がる、止まるでよかったんですが、その後安全、省エネ、環境、電動化とテーマが変わりました。
初のルマン参戦は70年でした。現地ドライバーから「車は自分で用意するからレーシングREを出してくれ」と要請を受け、シェヴロンB16にファミリア用REを急遽提供し出場しました。

※1970年 シェヴロンB16にファミリア用REを提供しマツダのルマン挑戦がスタート

しかし、当時の担当者がどうもシェヴロンB16とREのドッキングに苦労されているらしく、上司から「松浦、手伝いに行ってくれ」と言われ、私はルマンが何なのかまったく知らないままに現地に入ることになりました。レース当日、急造りのシェヴロンB16はレース開始からわずか3時間後、34周目くらいにウォーターホースがバーストしてオーバーヒートでリタイアしました。私も現場に駆けつけましたが、どうにもならない状態でなす術もなく立ちすくんでいました。そこで聞こえてきたのが、マトラやポルシェ、フェラーリなどのトップレーシングカーの美しい排気音でした。まるでミュージック。本物のレーシングカーの排気音をそこで体感しました。

73年から79年までの3度のルマン挑戦は、マツダ本体が国内での打倒BMWにかかりきりだったこともあり、マツダオート東京での参戦となりましたが、マツダとして十分に支援ができなかったことやチーム力不足、各種トラブルに見舞われリタイア、完走規定未達、予選落ちと苦戦が続きました。

5.マツダついにルマンに本腰。目標達成も衝撃の展開に

81年、82年は苦戦が続くチーム体制にマツダが我々開発チームのスタッフをテクニカルアシスタントやマネージャーとして送り出し、本格支援を開始しました。そして、82年にようやくRX-7が初完走を果たし、続く83〜85年は省エネ化時代に入り「初の燃費規制」レースとなりました。

83年マツダはクラス優勝を果たし、最高燃費賞も獲得。85年にはより上位入賞を狙いハイパワーREの開発がスタートしました。86年からは市販車のトレンドがターボとなって、レースもターボ一色で、レーシングREもターボに挑戦しましたが、燃焼制御や耐熱のトラブルが続出しました。開発方針をターボREからノンターボの3ローターREへ変更し、87年に7位入賞。88年には4ローター化に挑戦し、89年に全車完走、7位、9位、12位と上位入賞しました。すでに90年からはルマンのレギュレーションが変更となり、エンジンはレシプロの3.5リッター一本化でREやターボはもう出られないと決まっていたので89年が最後の予定だったんです。それで、3台出て3台とも完走、入賞で、「よかった、よかった。これで終わった」と思っていたら大変なことになってきました。

というのも、マツダ本社で初の「ルマン凱旋セレモニー」でのデモ走行で、社内のモータースポーツに対する認識が一変。驚くほどの祝福の嵐。その盛り上がりの最中、89年がRE最後のルマンだと思っていたところもう1年ルマンをREで走れるというニュースが飛び込んできました。

ここで、会社の雰囲気がまったく変わってきて、「次のルマンの目標はオールマツダで総合優勝」の大号令。その時は「できるわけがない、私たち数人で。全社で支援すると言ってもレースのレの字もわからない人たちが、何がわかるんだろうか」と思いました。そんな中で急に「800馬力のエンジン開発をしろ」と言われ、私は何度も「こんな短期間ではできない」と抵抗しました。どうやらそんな無茶を言われたのは、前年ルマンを完走したドライバーが終わった後に言ったらしいんです。「優勝するにはどうしたらいいのか」との問いに、「800馬力で逃げ切る」と。直接それが上から降りてきたんです。さらにコース改修で減速用のシケインが追加される(スピードよりもコーナリング重視)という、もうトリプルパンチですよね。

6.「総合優勝」に上がったハードルにチーム力結集。感動のフィナーレへ

こうして終わったはずのルマンへの挑戦は、再びスタートしました。そんな折、私に辞令が来ました。「松浦、来年技術監督でマツダスピードに出向せい」と。結構抵抗したんですが、上司に言われたら行かざるを得ないですよね。

出向はマツダスピードとの付き合いが一番深かったからこその人選でしたが、現場はそれこそ大混乱。それまでの直線重視からコーナリング重視に設計変更となり、空力、エンジン特性、駆動系、ブレーキなどもの作りは全部大幅遅れになりました。「これは、どうにもならん」というのがチームの雰囲気でした。こんな状況でコース変更やルール変更といった課題への対応や車両の完成が遅れ、ほとんど走行テストもできずほぼぶっつけ本番となって、完走はしたものの20位と惨敗に終わりました。

※「オールマツダで総合優勝」を目指し出場するも20位と惨敗

ところが、またまた衝撃のニュースが飛び込んできました。REの出場不可というレギュレーション変更が再び延期になるという連絡が入り、91年もREでの出場が可能となったと言うのです。3度目の「RE最後のルマン」です。「今度こそは」という意気込みで、現場の人間みんなで大反省会を行い、300項目の課題の中から4つの技術テーマ(コーナリング性能、居住性能、燃費性能、耐久信頼性能)と、4つの品質確保(設計、製造、テスト、メンテナンス)をちゃんとやって行こうと決めました。そして元F1ドライバーでルマンを6度制したジャッキー・イクスがアドバイザーとしてチームに加わってくれたことや、ポールリカールサーキット36時間耐久テストで本番テストができたこと、ピット内で各車の走行地点、車両コンディションなどがリアルタイムで把握できるテレメーターが導入されたことなど、万全の体制が整いルマン当日を迎えます。結果はもう皆さんご存知の通り、強力なライバル車たちを抑え、全車ほぼノントラブルで走り1位、6位、8位で完走、総合優勝を飾ることができました。

※1991年 悲願のルマン総合優勝

7.「飽くなき挑戦」スピリットが支えたレーシングRE開発

だいぶ経ってから、山本健一さんが、「松浦くんちょっと来い。どうしてルマンに優勝できたのか書け」ということで、レポートを数枚出したんです。私はその時は、「高いレベルで完成されたクルマづくり、ある意味有利になったレギュレーション。しっかり訓練できたプロフェッショナルチームの一体感。最後の願いで箱根神社に行ったのがよかった」と書いて提出しました。でも、今思えばREレーシングを常に叱咤激励し、支えてくれたマツダ全社員、ユーザーの皆さん、そして何と言っても「飽くなき挑戦」という言葉で私たちを鼓舞し続けてくれた山本健一さんの存在が大きかったのではないかと考えています。

※「飽くなき挑戦」という言葉でチームを鼓舞し続けた山本健一氏

今回は27年間レーシングREとともに歩んだ松浦國夫さんの講演でした。次回は、本稿でも取り上げたルマン総合優勝の立役者となった787B用エンジンの開発秘話をお届けします。ぜひご覧ください。