Life with Mazda

マツダのある暮らし

マツダを知る

MAZDA HERITAGE STORY 創業期~創立50年 後編


エピソード#5 「広島」の地で

誕生から104年、今も広島の地に

これまでのエピソードでご紹介したように、マツダが広島の地に誕生した理由は、ルーツとなる東洋コルク工業株式会社が1920(大正9)年に広島市内に創立されたからです。その数ヶ月後、新コルク工場の建設に伴い同じ広島市内で中島新町から吉島町へ移転した後、1931(昭和6)年には三輪トラックで自動車製造に乗り出すため、広島県安芸郡府中町(当時は府中村)の海岸埋立地に大規模な工場を建設し、本社とともに再度移転しました。以降はずっとこの地に本社を据えています。
つまりマツダは100年以上にわたり、広島市およびその近郊に軸足を置いて事業活動を展開してきたことになります。豊かな自然に温暖な気候、そして交通の便や労働力にも恵まれたここ広島の地ではありますが、その間の歩みは決して順風満帆ではなく、地理的な条件や時代背景から生じたさまざまな障壁を、知恵や工夫、時には人びとの想いによって乗り越えてきた歴史があります。今回はそのあたりの話に触れたいと思います。

現在のマツダ本社

地理的な条件

東洋工業が三輪トラックを作り始めた昭和の初期、自動車はまだ世の中では珍しい存在でした。比較的安価な部類であった三輪トラックでも、その購買層は小口配送業者や個人商店などごく一部に留まっていました。荷物を運ぶトラックの有望な消費地といえば、人口が多く経済活動も盛んで、需要が見込める産業の集積地ということになります。また東洋工業は、三輪トラックを足掛かりに、いずれは四輪トラックや乗用車の市場にも進出し、自動車ビジネスで大きく成長していく構想を描いていました。しかし、日本全国で販売シェアを伸ばそうとすると、大消費地から遠いという地理的な条件がネックとなります。本州の西端に近い広島は、大阪まで約300km、名古屋まで約500km、東京までは約800kmの距離があります。最も速い特急列車でも東京ー大阪間が8時間以上かかった時代ですから、広島からの人の移動や商品の輸送には現代よりもはるかに多くの時間や費用が必要でした。

 

もうひとつ、地方企業が不利になるのは全国的な知名度の低さです。今とは違ってテレビもインターネットもない時代、広島にある企業の存在やその商品情報が遠隔地に自然に伝わることは期待できません。いくら優れた商品があってもその存在が認知されなければ購入にはつながらず、販売シェアの拡大など覚束なくなります。他にも、中央の行政機関や業界団体の動向などを素早くキャッチする点でも距離的なハンデがあり、広島という地方都市でビジネスを着実に成長させていくには、これらの課題を一つひとつ克服する必要がありました。

臨海部の立地を活かす

そうしたハンデを克服するうえで一つの大きな突破口となったのが、会社の立地条件でした。空撮写真のように、マツダは広島の臨海部に位置し、本社は広島湾に注ぐ猿猴川(えんこうがわ)の河口付近にあります。つまり製品の輸送経路として、陸路や鉄路に加えて海路も選択できたのです。実際に当初は近距離を陸上や海上輸送、遠距離を鉄道輸送と使い分けていました。

※写真 鉄道輸送の積込み作業(1952年)

しかし、その方針を大きく揺るがす出来事が起こります。1952(昭和27)年に起きた炭鉱労働者のストライキの影響で蒸気機関車の石炭供給が滞り、鉄道輸送が完全にストップしたのです。これを機に、東洋工業は海上輸送を柱とする方針へ転換し、海運業者とともに船による遠隔地輸送を開拓します。

 

※写真 船積みの様子(1956年)

当時の輸送船はさほど大きくなく、荒天時の不安もありましたが、輸送時の製品の損傷が少ない、1台当たりの輸送費が安い、一度に大量に運べる、といったメリットが次々に明らかになりました。
従来の鉄道輸送と比較すると輸送費は約3分の1、おまけに製品が損傷した場合の修理費や人件費も大幅に削減でき、大幅な合理化につながったのです。

※写真 大型クレーンを設置した新しい埠頭(1964年)

この判断は、その後の自動車生産台数の飛躍的な増加を考えても、極めて妥当であったといえます。自動車生産台数が年3万台を超えた1954(昭和29)年には、自動車の積込み専用の桟橋を社内の猿猴川沿いに完成させ、乗用車市場に進出する直前の1959(昭和34)年の段階で、製品の海上輸送比率は95%にまで達しました。さらに1964(昭和39)年には、積込み用の大型クレーン3基を備えた新たな埠頭(ふとう)を建設し、輸送台数の急速な増加にも着実に対応していきました。

護岸の整備と並行して、マツダ車を輸送する専用船の増備や、その大型化・近代化にも積極的に取り組みました。1964(昭和39)年にはクレーンによる積込みではなく、作業者が運転して船内に乗り入れる「完全自走積込式」の輸送船を日本で初めて就航させました。これにより、吊り上げ時の損傷を防止するための保護材やワイヤーの脱着、荷下ろし位置の誘導作業などが不要となり、積込みの効率が飛躍的に高まりました。
東洋工業は自動車専用船の拡充を急ぎ、創立50周年を迎えた1970(昭和45)年には34隻の専用船を配備するまでになり、そのうちの27隻が自走積込式の船でした。自動車の輸送を専用船で行う取り組みは日本の自動車業界のなかでも早いものでしたが、そこには、臨海部という立地を活かして低コストの輸送を実現し、地方のハンデを克服するという懸命のストーリーがあったのです。

初めて完全自走積込式を採用した「東洋丸」

輸出の伸長

海上輸送の話に絡めて、ここでマツダ車の輸出の歴史にも少し触れてみます。その始まりは、商社を通じて三輪トラックを中国大陸や朝鮮半島へ輸出した1932(昭和7)年までさかのぼります。台数こそ40台程度でしたが、自動車製造に進出したすぐ翌年には輸出を開始していたのです。
その後は戦争による一時中断を挟み、1960年代初めまでマツダ車の輸出はアジア諸国が中心でした。この時代、欧米市場へはごく少数のサンプル的な輸出に止まり、年間の輸出台数も1,000台に満たないレベルでした。これは当時、東洋工業が軽自動車から小型自動車へ少しずつサイズや排気量を拡大している途上で、欧米市場で十分に通用する性能や車格を備えたマツダ車がまだ存在しなかったためです。

欧州輸出が本格化したルーチェ(輸出名: Mazda1500)

初の欧州輸出(1967年)

そして1966(昭和41)年、マツダ乗用車群の最高峰に位置し、国際的な競合力を持つルーチェがついに登場したのを機に、本格的な欧州輸出を開始。翌1967(昭和42)年以降、フィンランドやノルウェー、ベルギーなどに大量輸出されていきました。
一方のアメリカ輸出が本格化したのは1970(昭和45)年頃からです。数年前から慎重に進めてきた現地販売ルートの開拓が、ロータリーエンジン車が新規性や低公害性で話題を呼んだことで実を結び、一気に販売台数を伸ばしました。こうして、1960年代初頭には年間3,000台にも満たなかったマツダ車の輸出は、10年後の1970年には年間10万台を超え、その3年後には年間35万台まで急伸したのです。もちろんここに、東洋工業が早くから拡充してきた専用船による海上輸送が大きく貢献したのはいうまでもありません。現在もマツダは自動車の輸出比率が高く、広島の宇品工場の生産車は実にその9割近くが輸出されていますが、その製品輸送の基盤は1950年代から60年代にかけて着実に築かれていったのです。

アメリカ向け輸出の様子(1970年)

そもそも東洋工業が臨海部を選んで立地したのは、将来的な発展を見据えてのことでした。埋立ての拡大による敷地の拡張性のことですね。実際に敷地の変遷をたどってみると、当初は猿猴川東岸の上流側の一角に過ぎなかった敷地を、事業拡大に伴って下流側に広げながら川の両岸を埋立てて拡張しています。さらに乗用車市場に本格進出した1960年代に入ると、新たな乗用車専用工場の建設用地として、広島県がかねてから工事を進めていた広大な工業用の埋立地を取得します。猿候川河口に隣接するこの埋立地に建設されたのが宇品(うじな)第1工場と第2工場で、現在もマツダの広島地区の主力工場として稼働を続けています。

ユニークな販売促進のアイデア

それでは全国的な知名度の低さにはどう対応していったのでしょうか?その代表的な取り組みは、エピソード#3でも取り上げた三輪トラックによる全国縦断キャラバンの実施です。新製品を実際に走行させて性能や信頼性をアピールし、話題喚起を行うというとても大掛かりな販売促進策でした。戦前の1936(昭和11)年にはKC型三輪トラックの新発売に合わせ、鹿児島から東京まで5台の三輪トラックで24日間をかけて走行。1952(昭和27)年には三輪初の2トン積み車として発売するCTL1型で、広島~東京間を最大積載の状態で一度もエンジンを止めずに31時間あまりで走破。この企画では、新聞広告を通じて走破時間を予想する懸賞クイズを実施して話題喚起を図りました。

※写真 鹿児島-東京キャラバン 八幡製鉄所前(1936年)

その翌年には当代一の人気落語家が自ら三輪トラックを運転しての全国行脚を大々的に実施します。“気まぐれ三輪栗毛”と銘打ったこのユニークなキャラバンは、事前に走行ルート沿いの各地のマツダ車販売店を通じてイベントを積極告知。各地の名所や販売店に一行が立ち寄った際には、待ち受けた大勢の市民から大歓迎を受けたそうです。

※写真 金語楼気まぐれ三輪栗毛(1953年)

広島との強い結びつき

ここまで、東洋工業が地理的なハンデを乗り越えてきた話をいくつか紹介してきました。しかし、広島にはもうひとつ乗り越えなければならない大きな壁がありました。1945(昭和20)年8月6日の悲しい出来事です。原爆投下によって広島市の中心部は壊滅的な状態に陥りました。爆心地から5kmほどの距離にあった東洋工業は付近の小高い山が盾になり、幸いにも建物の大きな損壊は免れました。そこで市中心部にあった官公庁や放送局、新聞社などから相次いで建物貸与の依頼が東洋工業に寄せられます。生産再開もままならず社内も混乱の渦中にありましたが、これをすべて受け入れ、終戦から1年ほどの間、会社は広島の復興を支える中核拠点となったのです。最愛の次男を亡くした松田重次郎社長をはじめ、従業員の多くも深い悲しみを味わうなか、地元広島と一体になってゼロからの地域復興を目指して懸命にスタートを切りました。

その後は松田恒次社長が中心となり、他の地元企業とも協力しながら経済界をあげて公共施設の建設や整備に尽力します。1961年に竣工した東洋工業付属病院は地域住民に開放しただけでなく、放射線科には最新の医療設備を導入しました。一方で東洋工業は創業以来、製品の生産から販売、用地や人材の確保に至るまで、さまざまな領域で地元広島の方々に支えられてきました。第1次石油危機で会社の経営が大きく傾いた1970年代半ば、地元企業や官公庁をあげてマツダ車の購入を促進する異例の支援を受けたことも、忘れてはならないマツダと広島の歴史の重要な1ページです。

※写真 海外向けパンフレットで広島の復興をアピール(1949年)

きっと、これからも

マツダはルーツが広島にあるので、この地で成長してきたのはある意味必然ともいえますが、一方で少なからず課題もあり、海に近い立地や巧みなアイデアを活かして活路を切り開いてきました。その根底には、やはり広島で企業活動を続けたいという創業者の想いと、それを引き継いだ人びとの想いがあると私は感じます。マツダは広島で企業として成長する過程で、地域の人びとや企業に支えられ、互いに協力し合って、切っても切れない関係を築いてきました。きっとマツダはこれからも知恵と工夫で困難に立ち向かいながら、ずっと広島とともに歴史を重ねていくと私は信じています。