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MAZDA HERITAGE STORY 創業期~創立50年 後編


※本記事はニュースレターでご案内した「マツダヘリテージマガジン」を再構成したものです。
※画像や文章の転載、複製、改変等は禁止いたします。

マツダが創立100周年を迎えた際に、弊社従業員へ限定配布された「マツダ百年史 エピソード集」より、マツダの創業期から創立50年までの時代を中心としたエピソードをご紹介します。
エピソード集編纂スタッフが特別に書き下ろした内容となっておりますので、ぜひお楽しみください。

エピソード#4 商品・技術に込められた想い

前編ではマツダの創立から50年の歴史を中心にエピソードをお届けしてきました。エピソード#4では、この時代の特徴的な商品や技術について、時代背景とともにお伝えします。

どんな時代にあってもモノづくりの心を持ち続けて

GA型(1938年)

マツダ初の自動車であるマツダ号DA型が誕生した1931(昭和6)年、すでに三輪トラックは荷車や牛馬に代わる小口の運搬手段として需要が急速に高まっていました。東洋工業は、生産規模の拡大と並行して性能や積載能力を向上させた改良モデルを矢継ぎ早に投入します。一方で販売網の構築にも力を入れ、三輪トラックは順調に生産台数を伸ばします。東洋工業は三輪トラックメーカーとしてメキメキと頭角を現し、業界の主要な一角を占めるようになります。

※写真 DA型

そしてさらなるシェアの獲得を目指して1938(昭和13)年5月に登場したのがGA型です。エンジン排気量の拡大やシャシーの改良、3段のギアボックスを4段にするなどのできる限りの技術改良を織り込みました。また特筆すべき点は、「グリーンパネル」というペットネームをマツダ車で初めてつけたことです。その由来はドライバーの正面に位置する計器盤のパネルが緑色に塗られていたためです。一方で同年4月には、政府が国家総動員法を発令し世の中には戦争の足音が近づいていました。グリーンパネルを紹介した当時の広報誌にはこんな言葉が綴られています。「緑は青春を表す色であり、限りない発展を秘めた若さの象徴、力の根源である。そしてさらに平和、幸福をも意味している」

※写真 GA型計器盤(マツダミュージアム収蔵 レストア車)

しかしグリーンパネルが登場するころには、東洋工業は陸海軍の共同管理工場に指定されて自由なモノづくりは許されなくなっていました。国策で自動車は官用または軍用の中型・大型トラックを優先し、三輪トラックは不要不急品と見做され、東洋工業は兵器などの軍需品の生産を厳しく課されて三輪トラックの生産ができなくなったのです。
1941(昭和16)年、日本は太平洋戦争に突入します。社内には軍の関係者が常駐して生産の進度や品質をチェックするようになりました。

※写真 軍関係者による工場視察

ある時、矢の催促をするために工場視察に訪れた軍の将校を当時専務だった松田恒次氏が案内していると、場内に置かれていたエンジンの部品を足蹴にして言い放ったそうです。「こんなものを作っているから軍の仕事ができんのだ!」と。それはあのGA型の部品だったのです。心ない罵声にも歯を食いしばって、じっと耐えるしかありませんでした。必死に磨いてきた技術は、皮肉にも戦争のために利用される時代だったのです。

やがて1945年に終戦を迎えて軍の厳しい命令からは解放されました。しかし軍の管理工場だった東洋工業が軍需から民需へ転換するにはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の認可が必要でした。そしてモノをつくるにも資材は枯渇していました。認可を申請する一方で工場内に残っていたわずかな資材をかき集めて終戦から4か月後の12月、何とか10台のGA型を生産しました。原爆の爆心地から少し離れていたことと、比治山(広島市南区に位置する山)という小高い山が盾になったことが幸いして工場や設備の大きな被害は免れていたのです。しかし翌年1月の生産は1台、2月は19台と資材の調達難は深刻でした。取引があったサプライヤーを訪ねて部品の生産再開を要請するなど、資材の確保に駈けずり回りました。鉄板の不足は、近隣の都市や県外に残っていた軍の燃料貯蔵タンクの廃鋼材の払い下げで補うほどでした。

石油タンク解体後の鉄板切り出し作業

まだ交通網も完全には復旧していない中、暑い日も雨の日も東奔西走したのです。全社を挙げた努力によって、終戦から2年後に生産台数はようやく戦前のレベルにまで回復します。被爆後当時の広島の惨状は皆様にもお分かりいただけると思います。そんな状況の中で生産復興に向けて必死の努力を続けた理由は、何としてでも一刻も早く、一台でも多く世の中に届けて復興の役に立ちたい、その一心だったのです。

本社工場(1945年頃)

デザインへのこだわり

戦後の復興期に入って国内の物資の輸送量は大きく増加しました。そこで東洋工業は、軽便な輸送手段だった三輪トラックを大型化します。1950(昭和25)年、それまで蓄積した研究成果を惜しみなく注ぎ込んで“超弩級(ちょうどきゅう)”と謳った新型三輪トラックCT型を発売しました。積載能力の向上に見合った高性能なエンジンを開発し、そして騒音や振動を抑える工夫をこらすなど従来の三輪トラックの性能を大きく上回るものでした。

もうひとつ画期的だったのが、三輪トラックに“工業デザイン”を導入したことです。工業デザインとは、単に美しさを求めるだけではなく、機能や生産性も視野に入れたデザインのことを指します。これを実現するために、わざわざ東京から新進気鋭の工業デザイナーを招きました。その結果、防風効果に加えてヘッドライトやワイパーを機能的にまとめたフロントカウルが誕生し、車体の上下はマローン(えんじ色)とグレーのツートンカラーに塗り分けられました。このころの他社の三輪トラックは、実用本位でデザインなどは二の次。簡素で無骨な外観をしていたため、CT型の垢ぬけたスタイルは従来の三輪トラックのイメージを一変させました。

一斉にモデルチェンジした「55年型車」

そして三輪トラック市場で安定的にトップシェアを獲得するようになった1954(昭和29)年の秋、東洋工業は次なる一手を打ちます。当時の東洋工業は、搭載エンジンや積載能力が異なる3種類の三輪トラックを生産していました。それらのデザインを完全統一して、「55年型」と称して一斉にモデルチェンジしたのです。曲面を随所に多用したパネルや二灯式のヘッドライトなどを巧みに組み合わせたデザインは、三輪トラックを精悍(せいかん)さと親しみやすさを兼ね備えた顔つきに変貌させました。そしてその形状は見た目だけではなく、強度や軽量化の要求にも十分応えるものでした。もちろん、お洒落なツートンカラーも引き継がれました。遠くからでも一目でマツダの三輪トラックと分かる視覚的特徴を備えただけでなく、その姿は戦後の復興期から成長の時代に向かう街中の景色に新しい風を送り込んだのです。

やり遂げなければならなかった ロータリーエンジン

西ドイツに向かう松田恒次社長一行(1960年)

1960(昭和35)年、東洋工業はR360クーペで念願の乗用車市場に参入します。しかし市場ではすでにライバルメーカーがしのぎを削っていました。当時の社長 松田恒次氏は、「後発メーカーである東洋工業がここからシェアを伸ばすためには、独自の存在価値を示す何かが必要だ。他社と同じことをやっていては今後待ち受ける厳しい競争には到底勝てない」と考えていました。
そこへ西ドイツから、夢のエンジンとされてきたロータリーエンジンの開発に成功したというニュースが届きます。「これだ!」とひらめいた彼は、社内にロータリーエンジンに関する調査を指示し、技術的な可能性を見出します。しかし開発元でも実用化はまだ途上で、共同研究開発に加わる企業や機関を募っていました。そこには世界中から100社を超える応募が殺到しており、東洋工業は交渉テーブルに着くことすら非常に厳しい状況でした。それでも政治家の支援やドイツ大使館の仲介などを得て、社長自ら技術提携の交渉にも赴きました。そしてついに1961(昭和36)年に技術提携契約を結んだのです。

一方で、東洋工業を取り巻く環境に暗雲が立ち込める事態が起こります。来るべき輸入自由化に備えて、国内自動車メーカーの国際競争力を高めるべく、乱立する中堅自動車メーカーを大手に吸収させて3つのグループにまとめるという大がかりな業界再編の動きが起きたのです。これが現実になると、乗用車の実績に乏しい東洋工業は軽乗用車のグループに取り込まれ、小型車や普通車まで幅広くラインアップする総合自動車メーカーになるという夢が潰えてしまうという危機的な状況に追い込まれたのです。当初は存在価値を高める武器と考えていたロータリーエンジンでしたが、ここにきて自主独立を守り抜く命綱となり、何としてもその開発を成功させることが至上命令となったのです。

開発を率いた山本健一氏

ロータリー四十七士を率いて開発の先頭に立ったことで知られる山本健一氏は、経営者の必死の姿を間近に見て、その想いに応えなければならないという使命感に燃えて、文字通り「不退転」の覚悟を決めたそうです。松田恒次氏と山本健一氏、この二人の覚悟が会社全体に共有され、その覚悟に賛同して協力や支援をしてくださった企業や人々がいたからこそ、次々と起こる難題にも決して諦めることなく開発を成し遂げることができたのです。今も多くの人がマツダといえばロータリーエンジンを思い浮かべるほど、その存在は単なる技術という位置づけに留まらず、会社を象徴する存在となっています。その理由は実用化に向けた技術的な試行錯誤の過程だけでなく、そこに関わった人々の想いや、それが伝播して壁を乗り越えてゆく物語に惹かれるからだと思うのです。

積み重ねてきた歴史と想い

今回のエピソードはいかがだったでしょうか。100年のものさしで見て、マツダのDNAを感じていただくのに相応しい話題を選んだつもりです。
戦争の時代、日本中のほとんどの企業が国策のなかで創業の想いとはかけ離れたことに従事せざるを得ない状況だったと思います。それでも先人たちがモノづくりに携わる者としての矜持(きょうじ)を持ち続けたことに、私は尊敬と感謝の気持ちを抱きます。今から70年以上も前に工業デザインを採り入れた話は、「そんな昔に、それも三輪トラックに?」と、まさに今日のマツダがデザインにこだわる姿勢につながっていると感じます。
そしてロータリーエンジン。開発過程の技術的な苦労話はよく紹介されているので、今回は違った観点から取り上げてみました。東洋工業が必死に実用化に取り組んだ理由のひとつは、「このままでは会社がなくなるかもしれない」という危機感から「やり遂げるしか道がない」と突き進むような背景があったからです。また、純粋に技術者として高い壁に挑戦して克服したいという欲求やプライドもあったでしょう。さらに加えるなら、「人の想いに応えたい」「ここで諦めたらその人の想いを無にしてしまう」という関わった人々の強い信頼関係もあったと思うのです。


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