1991年にマツダが成し遂げたことは、
ネバー・ギブアップというマツダの決意を世の中に知らしめた。

1991年にマツダが成し遂げたことは、ネバー・ギブアップというマツダの決意を世の中に知らしめた。

  • 1991年当時のマツダ モータースポーツ担当主査 小早川 隆治

1989年にデュドネが放った「ロータリーエンジンにはもう100馬力必要」という一言は、マツダのエンジニアリング部門を呆然とさせた、と小早川は言う。

不可能だという一部の声を押し切り、100馬力を捻出できるかどうかは、当時マツダの商品計画・開発部門の部長だった達冨 康夫(たつとみ やすお)にかかっていた。

マツダのエンジニア達は挑戦を決意、休日を返上してひたすら策を練った。最終的には1000を超えるエンジン改良案が提出、内80が承認され、1991年787Bエンジンに適用された。

優勝後、日本に戻ってきたエンジンに対し、小早川は分析用に解体することを提言、解体作業にはジャーナリストが招待された。分析の結果、エンジンは極めて良いコンディションにあり、24時間耐久レースをもう1度走行することが可能と診断された。

ル・マン総合優勝を経てアイコンと化した#55には、
ちょっとした魔法がかけられているようだった。

1981年スパ24時間耐久レースをRX-7で優勝したデュドネは、マツダで数多くの成功を収めているドライバー。

その中でも、1991年ル・マンの勝利は、格別な思い出だと言う。

レース中、55号車で走行していたジョニー・ハーバートは1988年の大クラッシュの後遺症に地獄のように苦しんでいた。

「我々のチームは優勝候補ではなかったが、マツダスピードはテクニカルに強く、十分チャンスがあると分かっていた」とデュドネは語った。

マツダの「飽くなき挑戦」のスピリットにも感服したそうだ。ル・マン総合優勝を果たした1991年以来、デュドネはマツダ専属ドライバーとして活躍、現在の愛車はMazda3で夫人はCX-5を運転している。

ル・マン総合優勝を経てアイコンと化した#55には、ちょっとした魔法がかけられているようだった。

  • 1991年ル・マン24時間耐久レース マツダスピード Mazda 787B #56 ドライバー ピエール・デュドネ(Pierre Dieudonné)

マツダのモータースポーツ。

マツダが世界のモータースポーツ・シーンにデビューした1968年、2ローター・ロータリーエンジンのコスモスポーツ110Sは大胆にもドイツのニュルブルクリンクで行われたMarathon de la Route(マラソン・デ・ラ・ルート)に参戦した。

この過酷な84時間の耐久レースに参戦すること自体、当時のマツダにとっては大きなチャレンジだった。エントリーした2台のコスモスポーツの内、1台は走行中のトラブルにも関わらず、4位入賞という好成績でフィニッシュした。

難攻不落なテクニカルサーキットとして名を馳せるニュルブルクリンクの84時間耐久レースでの好走行を通じて、マツダはその高い技術力とレース力を全世界に披露した。

 

デビュー以来、マツダは国際的なモータースポーツの様々な場面で活動し、見事な成績をおさめてきた。多くの自動車メーカーがモータースポーツへの資金援助やプロモーションを見送る中、マツダのMX-5(日本での販売名 マツダ ロードスター)は世界で最も多くのレースに参戦してきたスポーツカーだ。

特にMX-5をベースにした世界同一仕様車によるワンメーク・レース、Global MX-5 Cup仕様モデルは、数多くのシリーズに参戦している。

 

米国では、米国の国際モータースポーツ協会(IMSA)が運営する、伝統のあるスポーツカー耐久シリーズ、ウェザーテック・スポーツカー選手権にMazda RT24-Pが参戦、好成績を維持している。

ギャラリー

マツダの総合優勝から30年を記念して、特設ウェブサイトが開設された。
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