Life with Mazda

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MAZDA HERITAGE STORY 創業期~創立50年 前編


エピソード#2 「コルク」から始まった必然

広島はコルクの産地だった

マツダのルーツとなる会社が1920年に創立された「東洋コルク工業株式会社」であることはエピソード#1でお話しました。
では、なぜコルクの会社だったのか、なぜコルクの会社が自動車を造るようになったのでしょうか。
コルクの原材料となるコルク樫(かし)は輸入品ですが、中国地方の山間部には代用品の「アベマキ」という落葉樹が広く分布していました。江戸時代中ごろからこの木の樹皮を木造船の材料に使っていましたが、明治時代に入ると瓶(びん)栓に加工するようになり、アベマキコルクの生産が広島の地場産業のひとつになりました。第一次世界大戦によるコルクの一時的な輸入停止による好景気、一転その後の世界恐慌によって国産コルク業界は翻弄されます。
そんなとき、経営難に陥った広島の個人経営のコルク業者を立て直すために、多額の融資を行っていた銀行を中心に広島の財界の有力者たちが集まって株式会社化し、東洋コルク工業は誕生しました。マツダとコルクのつながりはここから始まり、現在も「ヘリテージコルク」としてMAZDA MX-30のインテリアで利用するなど、脈々と続いているのです。

東洋コルク工業は、瓶栓よりも付加価値が高い商品として、当時普及し始めた製氷冷蔵設備の断熱材用に圧搾コルク板の製造を開始します。そして品質や生産性を高めるために、今でいう産学連携を行って独自の商品も開発しました。一定の成功は収めましたが、製氷冷蔵業界は季節変動の影響によって需要が不安定という傾向がありました。
その後、1923年9月の関東大震災では、東京の販売代理店が火事に遭い、商品の焼失や被災した顧客から売掛金が回収できなくなるなど大きなダメージを受けました。懸命な震災復興の一方で世の中の不況色は濃くなるうえに、資金繰りはますます悪化し、会社は深刻な経営危機に直面します。

その上なんと1925年の暮れには工場火災にまで見舞われてしまったのです。どうにか3か月後には仮工場で生産を再開しますが、厳しい経営環境のなかでの再出発でした。そのような中で会社は、1927年6月に事業目的を「コルク製造並びに付帯工業を営む」から「コルク及び諸機械の製造並びに付帯事業を営む」に変更し、同年9月には商号を「東洋工業株式会社」に改称しました。より事業の安定化を求めて、一定の需要が見込める機械を使って製品を製作する分野に進出したのです。

覚悟を持ってコルクから機械の分野へ

東洋工業はコルク事業の再建に取り組みつつ、すぐさま機械分野の生産体制確立に乗り出しました。海外製を含む高価な一流の工作機械30台と金属加工機を購入するとともに、工場建屋の整備拡張も急ピッチで進めました。また、広く機械製作の技術を習得するために広島高等工業学校との連携も図りました。瀕死の状態の会社の再建策としてはあまりに性急で、規模も大きいものでした。
東洋工業がまず目指したのは軍の指定工場になること、それは企業としての技術力にお墨付きを得るということです。当時の広島はすでに軍都として発展しており、呉(現在の広島県呉市)には最先端の技術を集め、あの戦艦大和を造った海軍工廠(こうしょう)がありました。ここでの仕事を勝ち取るためには、軍の厳しい要求に応えられる高い工作精度、技術の壁を打ち破る発想力、厳しい納期に対応できる生産能力などモノづくり企業としての総合力が必要なのです。

東洋コルク工業本社事務所(吉島、1929年頃)

東洋工業は、まず二次下請け業者として参入して実績を重ね、わずか1年あまり後の1929年1月には呉や佐世保の海軍工廠の指定工場となったのです。その背景には、積極的な設備投資による設備の拡充や工作機械の導入、精密機械工業には欠かせない合金鋳物工場の新築などがありました。普通は攻めの経営再建、反転攻勢といってもここまでやる例は少ないのではないでしょうか?しかし、もしこのときリスクを避けて、多額の資金を借り入れてまで最高レベルの技術の世界でしのぎを削る道を選んでいなければ、今日のマツダはなかったかもしれないと私は思います。

いざ、自動車事業の世界へ

ところが軍の仕事というのは戦況に応じた変動が大きく、コルクに代わる安定した受注先とはいえませんでした。東洋工業としては下請けではない軍需以外の「独自の製品を持つこと」が必要でした。そこで着目したのが自動車です。当時の日本の自動車産業はまだ黎明期で、欧米の輸入車に対抗できるレベルではありませんでした。そして国が軍事的視点から中型貨物車の生産体制構築に注力し始めるその陰で、市場では馬車やリヤカーに代わる中小企業の貨物運搬手段として三輪自動車が台頭してきたのです。ただそれらの大半は、エンジンなどの主要部品を輸入品に頼り、町工場レベルの小規模な生産体制のものでした。東洋工業は、当時の市況から安価な荷物車としてより多くの人々の役に立つ三輪トラックが急速かつ広範囲に普及すると考え、これを純国産で一貫生産による量産を実現することを重点目標としたのです。

  • 写真 内面研削盤(1943年)

三輪トラックの生産に先立つ1929年、東洋工業は社内用に工作機械を自社で生産しました。その機械には海外製の優れた機械の知見や改良点も織り込まれており、そこには社長の松田重次郎の「優秀な機械で優れた製品を造る」という考えが色濃く反映されていました。そして内製の工作機械を増やして自動車生産用の工作機械の自給体制を構築します。その一部は販売されて市場でも東洋工業の工作機械は存在感を高めていきました。さらにその技術力の高さは、さく岩機製造の道も切り開きました。当時の大手企業グループが海外で展開していたダム工事に必要なさく岩機の開発・製造を要請してきたのです。これが、のちのTOYO(トーヨー)ブランドの工作機械とさく岩機の始まりです。

  • 写真 さく岩機(1950年)

故郷 広島への思い

向洋の風景(1887年頃といわれる)

ここまでの事業拡大を一気に進めた2代目社長の松田重次郎は、広島市に近い向洋(むかいなだ)の地に生まれた人物でした。向洋は海沿いの、平地が少ない農耕には適さない寒村でした。村人のなかには魚を求めて遥か対馬にまで漁に出る者もいたといいます。一方で広島は古くからの鉄の産地で、腕のいい職人も多く、針やヤスリなどの鉄製品のモノづくりが盛んな土地でした。明治時代以降は、鉄道の駅や宇品や呉といった広島の港が整備され、呉海軍工廠をはじめとする造船業も盛んになりました。30代に大阪で機械事業の実績を残した彼は42歳で故郷に戻ります。ここで新たに事業を起こせば地の利を活かせるうえに、故郷の人たちの暮らしも豊かにできる。そう考えたのです。

広島にはコルクの地場産業があったこと、機械に明るく故郷 広島への思いを持った経営者がいたこと、その彼がコルク業者の再建メンバーに加わったこと、軍都 広島のまわりには最先端の技術が集まっていたこと。これらのピースが時代の流れのなかで偶然にもぴったりとはまり、今につながるマツダの源流が築かれたのです。しかし今から振り返ると、それはあたかも必然のようにも思えるのです。皆様はいかがでしょうか?


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