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MAZDA HERITAGE STORY 創業期~創立50年 前編


エピソード#3 創業家2代 松田重次郎と松田恒次

親子であるこの二人が社長を務めた期間は、創立2年目からの実に49年間に及びます。この間に現在のマツダに至る企業基盤の大半が築かれたことはこれまでのエピソードでも触れました。実際、広島県内で稼働する本社工場や宇品工場、三次自動車試験場などの主要施設や、三輪トラックに端を発し、乗用車から商用車まで幅広くカバーする豊富な商品ラインアップも、この時代に形作られたものです。しかし、彼らが築いた企業基盤はこうした物理的な側面だけには留まりません。

松田 重次郎

不撓不屈の人
松田 重次郎(まつだ じゅうじろう)は1875(明治8)年に松田家の12番目の末っ子として広島の向洋(むかいなだ)に生まれました。重次郎氏をひと言で語るなら「不撓不屈の人」でしょう。東洋コルク工業の創立に関わる以前に、彼は自身で会社を四度も起こした経歴を持ちます。つまり、その数だけ廃業や辞職を余儀なくされてもいます。しかし彼は失敗しても決して諦めることなく、その都度立ち上がりました。
最初の起業は20歳のときで、経験不足のため機械加工業の経営はすぐに行き詰まりました。二度目は一定の成功を収めますが、株式会社に改組する際の手続きで法律の知識不足につけ込まれ、自身の会社を手放す憂き目に遭います。

彼は三度目の起業にあたり、融資元であった銀行の支店長とのやり取りでこんな言葉を口にしたそうです。「私はこれまでも何度もひどい蹉跌(さてつ)を経験しました。だが私は屈しません。そのたびに、新しい希望を持って、さらに進んでいく覚悟です。私には仕事そのものが面白いのです」と。彼は3歳のときに父親を病で失い、貧しい暮らしを支えようと家族のために必死で働きました。寒さやひもじさ、辛さが当たり前の暮らしでした。あるとき漁を手伝っていて、子どもの手には負えないような大きな魚を格闘の末に一人で捕まえたというエピソードがあります。重次郎氏の辛抱強さと、努力すれば報われるという信念は、幼いころの経験にも基づくようです。

機械に魅了されて
重次郎氏は大の機械好きでした。若いころは、機械から精巧な製品が生み出されていく様子を、驚嘆の眼差しで飽きもせずに眺め続けました。彼はより新しく、より優秀な機械を使う仕事がしたい一心で大阪、呉、佐世保の軍の工廠(こうしょう)や造船所を渡り歩き、職人として熱心に働きました。めきめきと腕を上げ、先輩の職人よりも高い賃金をもらうほどでした。
しかし、彼は自らの腕一本で勝負をする職人の道よりも、機械を駆使して造ったモノをより多くの人へ届けたいと熱望していました。仕事の合間に工場内を見学して回り、機械の名前や性能、操作法などを熱心にメモしては担当者を質問攻めにしました。そんなことを繰り返すうちに自然と機械に対する目利きや知識が高まりました。東洋工業の社長として「優秀な機械で優れた製品を造る」と宣言した彼の考えはこうして身についていったのです。

※写真 三度目の起業「松田製作所」時代、排水用の大型渦巻ポンプと(1913年)

「信」に生きる
重次郎氏は晩年、自らの人生を振り返り、「私は自分を信ずるとともに人を信じた。人を信ずるとともに天を信じた。私の一生は、いわば信の一生なのである」と語っています。職人や技術者として自らの腕や技術に絶対の自信を持つからこそ、他者に対しては常に誠実に接したのです。三度目の起業では、大阪で事業を立ち上げ大成功を収めたにもかかわらず、彼はその会社を去る決断をしました。その背景には、当時の事業の拡大を図る新工場の建設地として、土地が安く地の利もある故郷の向洋で用地購入の話を決めたことが発端でした。すでに故郷の人々との約束を取り付けていたなか、在阪の他の経営陣は彼の行為を「暴走」と見做し、猛反対をしたのです。一方、故郷では安定した働き口が確約されて期待ムードが高まっていました。板挟みになった彼は潔く故郷との約束を守る道を選びました。正直に、そして誠実に、人事を尽くし天命を待つ。彼は人生のあらゆる局面で、この信念を貫いた人だったと感じます。

松田 恒次

経営者としての資質
松田 恒次(まつだ つねじ)は1895(明治28)年、父・重次郎氏が大阪で最初の起業をしたころに生まれました。幼いときは仕事場でハンマーをふるう重次郎氏の傍らで“ふいご”(火をおこすための木製の送風機)を吹く手伝いに励みました。機械に対する興味や知識をごく自然に習得していっただけでなく、技術者気質の重次郎氏が会社の切り盛りに苦労する姿を間近で見ながら、少しずつ経営のセンスを培っていった節もあります。
実際、恒次氏の経営センスには光るものがありました。彼は東洋工業の社長時代、優れた製品を世に送り出すだけでなく、宣伝にも優れた手腕を発揮します。

※写真 東洋大橋にてコスモスポーツと(1965年)

1952(昭和27)年には、三輪トラックで広島-東京間をノンストップで走破するという前代未聞のPR策を大々的に実施。その翌年にも当時の人気落語家を起用して「広島-東京三輪栗毛」と題したキャンペーンを打ち、全国的に大きな注目を集めました。また、有名俳優や文化人との対談記事を載せたPR誌の発行や企業広告も推進するなど、地方企業の知名度のハンデを克服するための先進的な取り組みを行いました。

※広島-東京間ノンストップ走破の様子(愛知県内 1952年)

※広島-東京三輪栗毛の様子(1953年)

もうひとつ、企業の舵取りという観点では、自社製品を持つことの重要性を説いた重次郎氏の後を受け、恒次氏はさらに製品や技術が持つ個性や独自性を重視しました。東洋工業が厳しい競争に打ち勝つために、三輪トラック業界でいち早く工業デザインの考え方を導入したこと。また競合他社より参入が遅れた乗用車の市場で強い存在感を発揮するため、革新的なロータリーエンジンの開発に挑戦したのもそのためだったのです。

 

理にかなえば迷わず

恒次氏はよく「合理主義者」と評されます。より多角的に物事を捉え、先の将来まで見通したうえでの判断はその好例です。彼は1928(昭和3)年、32歳で父・重次郎氏が経営する東洋工業に入社し、製造設備の図面を書く仕事に従事します。やがて自動車産業への進出が決まると、父・重次郎氏の命を受けて市場調査や部品購入先の打診に奔走することになります。さらに、府中村(現・府中町)への本社移転を伴う大規模な新工場建設では、レイアウト提案と現場監督を任されますが、このとき親子で意見が対立します。父・重次郎氏は三輪トラックも工作機械も関係なく類似した加工工程は同一機械で処理し、最終の組立段階で製品別に分ける考えでしたが、息子・恒次氏は三輪トラックの一貫量産システムの確立が不可欠だと主張します。投資の重複を避けたい重次郎氏の考えは理解しつつも、彼は将来の増産対応や発展性を重視し、重次郎氏の説得に努めます。その結果、恒次氏の話を聞いた重次郎氏も納得し、恒次氏の意見を受け入れました。

東洋工業新付属病院(1961年)

1961(昭和36)年に竣工した東洋工業付属病院(現・マツダ病院)にも、彼の合理性を象徴する話があります。この新病院の薬局にはなんと、患者の処方箋を運ぶベルトコンベアが設置され、薬の数量や患者の情報をコンピュータで管理する先進のシステムが導入されていました。薬を迅速に間違いなく患者の元に届けるために、製造業ならではの発想や技術を応用したのです。病院にコンベアとは奇想天外ですが、目的に対して理にかなっていれば躊躇なく実行に移したのです。

「合理主義者」と呼ばれる一方で、恒次氏に関して多く語られるのが“人間味”と“広島愛”です。初対面の人は彼のギョロリとした鋭い眼に一瞬驚きますが、話を始めると、常に相手を思いやり繊細な気遣いをする人柄に惹かれていったそうです。そして広島に対する愛情は、地域に支えられていることへの感謝が根底にありました。特に原爆で未曾有の被害を受けた広島市民に寄り添う思いは人一倍強く、先の付属病院を従業員やその家族、地域の人々に対して広く開放し、放射線治療をはじめとする最先端の医療設備や優秀な医師を揃えたのです。

この二人だったからこそ

機械に対する造詣が深く、何度壁にぶち当たっても挑戦を諦めず、集大成として自動車製造の道に進んだ父・重次郎氏。そのすぐ傍らで父を支えながら経営者としての資質を磨き、自動車メーカーとしての成長を主導した息子・恒次氏。重次郎氏の人生は正に「飽くなき挑戦」そのもの、恒次氏は合理的精神を重んじながら「独自性」にしっかり活路を見出す。この二人が前半部分の50年を力強く率いたからこそ、今なおその精神がマツダのDNAのなかに色濃く宿っている、私はそんな思いを強くするのです。


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