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マツダを知る

MAZDA HERITAGE STORY 創業期~創立50年 前編


※本記事はニュースレターでご案内した「マツダヘリテージマガジン」を再構成したものです。
※画像や文章の転載、複製、改変等は禁止いたします。

マツダが創立100周年を迎えた際に、弊社従業員へ限定配布された「マツダ百年史 エピソード集」より、マツダの創業期から創立50年までの時代を中心としたエピソードをご紹介します。
エピソード集編纂スタッフが特別に書き下ろした内容となっておりますので、ぜひお楽しみください。

エピソード#1 はじめに

マツダは2020年1月30日で満100歳を迎えました。人間でいえば大正9年生まれのご長寿さんです。
さて、皆様は「マツダ」と聞いてどのような言葉を思い浮かべますか?ロータリーエンジンやルマン優勝、魂動デザインなどでしょうか?マツダにまつわる言葉は色々と浮かぶと思います。まずは概要をお話させていただき、次頁からマツダの歴史についてこの企画ならではの視点でご紹介します。

マツダの生い立ち

松田重次郎が社長に就任した頃の東洋コルク工業全景

皆様はマツダのルーツをご存知でしょうか?
さかのぼること1920年1月30日。コルク製品の製造と販売を手掛ける会社として、マツダの前身である東洋コルク工業株式会社が産声を上げました。広島にあったコルクを扱う個人商店を株式会社化して経営再建を図ろうと、地元財界の有力者が集まって会社を起こしました。初代社長は広島貯蓄銀行社長の海塚新八という人が務めましたが、健康面の理由からわずか1年で社長の座を譲り、2代目社長となったのが取締役だった松田重次郎でした。
彼は、1921年3月から1951年12月まで実に30年以上の長きにわたって社長を務め、3代目を息子の松田恒次、4代目を孫の松田耕平が務め、3代にわたって松田家の時代が続きました。この時代にコルクから機械産業、そして自動車産業へと業態の舵を大きく切り、社名も東洋工業株式会社に改めました。そして今日のマツダの基礎となる会社の敷地の取得や施設の建設、モノ造りの基盤となる当時最先端の工作機械や素材技術の導入などが積極的に進められました。現在のマツダの企業としての形の大半が、この時代に築かれていたということは大きな驚きです。

なぜ「MA“Z”DA」なの?

1931年に東洋工業が発売した初の自動車は「マツダ号DA型」という三輪トラックです。東洋工業の商品には工作機械やさく岩機などがあり、これらのブランド名は「TOYO(トーヨー)」でした。しかし自動車のブランド名は最初から「マツダ」で、英語表記は「MATSUDA」ではなく「MAZDA」でした。「MAZDA」の表記は暗黒の世を光明に導いた光の神“アフラ・マズダー"にちなんだもので、新たに生まれた「マツダ号」が小型自動車業界の光明になるようにとの願いが込められています(もちろん社長である松田重次郎の姓にも由来しています)。
そして社長の経歴という面から見れば創業家(松田家)の時代の56年間と、その後の会社生え抜きの人たち、通産省やフォードから迎えた人たちと、さまざまな14人の人たちが舵取りをした48年間に分かれます。その時どきに多くの方々に支えられながら、何とか時代の荒波を乗り越えることができて“今”があります。

「17人」の社長がつなぐ105年間

しかし客観的にみて、歴代で17人の社長がこれほどバラエティに富む会社も珍しいのではないでしょうか。そのような企業が100年も続き、「マツダらしい」と言われるような何か一貫した人格のようなものを感じさせるのは、とても不思議に感じます。実は、会社の中にいる私たち自身でさえ、その理由はハッキリとはわかりません。ただ、さまざまな会社の一面や出来事を知っていくと、何となく「なぜ、マツダが今日のような会社になったのか」という理由のようなものがいくつか見えてきました。
皆様に少しでもその部分を感じていただけるよう、これまであまり知られていなかったエピソードや当時の社員たちの声、思いなど色々な話題を紹介していきたいと思います。
なぜコルクから自動車に?なぜ広島にあり続けるの?なぜロータリーエンジンをはじめとする独自の技術にこだわるの?
当時の光景を想像し、先人たちの思いを感じていただけると嬉しいです。


次ページは、エピソード#2「コルク」から始まった必然

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