高い技術力を有する技術者たちは、
戦後その技術を平和に役立てたいという志を持ってマツダに入社。
マツダのものづくりの発展に貢献した。

ものづくりの伝統が脈々と流れる広島。そして広島で誕生したマツダ株式会社も、ものづくりの伝統を受け継ぎながら革新に挑んでいる。

古くから「たたら製鉄」が各地で行われていた広島では、その鉄を使ったものづくりが盛んであった。1889 年には、防衛に適した立地を活かし、広島市の東南に位置する呉市に、西洋型海軍の拠点として呉鎮守府が設置され、1903 年には大日本帝国海軍の軍艦を建造する呉海軍工廠が設立された。

 

マツダ株式会社の前身となる東洋工業の事実上の創業者、松田重次郎(まつだ じゅうじろう)も呉工廠造船部の職工として働いた経験を持つ。広島市に近い小さな漁村で生まれた重次郎は、幼い頃から故郷を豊かにしたいという大きな夢を抱いていた。

古くから「たたら製鉄」が各地で行われていた広島では、その鉄を使ったものづくりが盛んであった。1889 年には、防衛に適した立地を活かし、広島市の東南に位置する呉市に、西洋型海軍の拠点として呉鎮守府が設置され、1903 年には大日本帝国海軍の軍艦を建造する呉海軍工廠が設立された。

 

マツダ株式会社の前身となる東洋工業の事実上の創業者、松田重次郎(まつだ じゅうじろう)も呉工廠造船部の職工として働いた経験を持つ。広島市に近い小さな漁村で生まれた重次郎は、幼い頃から故郷を豊かにしたいという大きな夢を抱いていた。

鍛冶屋や工廠で技術を磨き、その後経営者としての手腕をも発揮した重次郎は、1920 年に東洋コルク工業株式会社を創立し、コルクの製造を開始する。その1年後には周囲に押される形で取締役社長に就任した。

 

東洋コルク工業は後に社名を東洋工業に変更、1931 年に三輪トラックの生産を開始した(同社は、1984 年に社名を現在のマツダ株式会社に変更した)。

松田重次郎は、広島復興のために1945年12月に三輪トラックの生産を再開。
三輪トラックは、再建用の物資の運搬に大活躍した。

  • (左)現在は原爆ドームとして知られる広島県物産陳列館の焼け跡を背にしたマツダの三輪トラックGA型。(右)広島平和記念公園内にある原爆の子の像。

広島の歴史を語る上で欠かせないのが、1945年8月6日の原子爆弾の投下である。その日、一瞬で数万人もの命が奪われ、広島市は壊滅状態となった。すっかり変わり果てた広島で生き延びた人々は、復興を願い、逆境を乗り越えようと立ち上がり、自らの生活を取り戻すために動き始めた。再建に関わる人々の強い意志に触発された重次郎は、人々の生活向上に貢献する乗り物づくりにかける思いを新たにした。

 

重次郎の夢を託された息子の恒次(つねじ)は乗用車の開発・製造へと事業を発展させ、後にマツダの社長となるエンジニア、山本健一(やまもと けんいち)と共にロータリーエンジンの開発を成功へと導いた。重次郎から脈々と受け継がれている不屈の精神は、広島を拠点とするマツダ株式会社の真髄となり、マツダのチャレンジ精神として受け継がれている。

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