那須野が原の開拓の歴史を物語る華族の別邸へ
爽快なドライビングを楽しみながら思いを馳せたのは、豊かな山々と大地に恵まれ、農牧業がさかんな那須野が原の原風景だ。この地の歴史は意外にも浅く、原点は今から約140年前の明治時代にあるという。その歴史の一端に触れてみようと、MAZDA3を走らせた。
訪れたのは、「旧青木家那須別邸」。この別邸の主だった青木周蔵は、明治時代にドイツ公使や外務大臣、アメリカ大使などを歴任し、欧米列強との通商条約改正に大きな功績を残した人物だ。「青木周蔵の生きざまは、明治時代の当時からすると非常に先進的だったと思います」と、那須塩原市教育委員会生涯学習課のご担当者。
天保15年(1844年)に長州(山口県)に生まれた周蔵は、長州藩医・青木家の養子となり、24歳にしてドイツへ医学留学に旅立つ。しかし、周蔵はかねてから関心の高かった政治学の道に転向し、ドイツ公使として約5年間、ドイツに赴任することになる。この間、周蔵はドイツで貴族出身のエリザベートと出会い、当時は極めて珍しかった国際結婚を果たす。その後もドイツ公使を歴任し、留学時代も含めると、周蔵がドイツに滞在した年数は合計約19年間にも及んだ。


「ドイツ翁」とまで呼ばれた周蔵は、やがてドイツの貴族地主の生活に憧れを抱き、明治14年(1881年)、那須野が原のこの地で林業を主体とする農場経営に乗り出した。明治21年(1888年)に建築されたこの別邸は、周蔵が那須野が原での暮らしの拠点としたものだ。
「設計は、ベルリン工科大学などで建築を学んだ松ヶ崎萬長(まつがさきつむなが)によるものです。ドイツ風の窓飾りや、屋根から突き出たドーマーウィンドウ、蔦型や鱗型の外壁スレート(板状の建材)など、随所にドイツ建築様式を取り入れた珍しい造作が見られます」(ご担当者)
「ドイツ翁」とまで呼ばれた周蔵は、やがてドイツの貴族地主の生活に憧れを抱き、明治14年(1881年)、那須野が原のこの地で林業を主体とする農場経営に乗り出した。明治21年(1888年)に建築されたこの別邸は、周蔵が那須野が原での暮らしの拠点としたものだ。
「設計は、ベルリン工科大学などで建築を学んだ松ヶ崎萬長(まつがさきつむなが)によるものです。ドイツ風の窓飾りや、屋根から突き出たドーマーウィンドウ、蔦型や鱗型の外壁スレート(板状の建材)など、随所にドイツ建築様式を取り入れた珍しい造作が見られます」(ご担当者)
明治時代の先人たちの開拓が、今の那須野が原の礎になった
別邸の内部には、周蔵が愛用したとされる家具、馬車などが残され、西洋然とした華やかな暮らしぶりが伺える。しかし、当時の農場経営は文字通り未開拓の領域であり、華やかさだけでは語れない歴史があった。
那須野が原は、那須連山から那珂川、蛇尾川などの運んだ土砂が堆積した扇状地を成しているため、古くから水に乏しく、当時は手つかずの原野が広がるばかりだった。明治18年(1885年)、国の殖産興業政策の一環として那須疏水が開削され、那珂川上流から水が引かれたことで、ようやく開拓に拍車がかかり、それ以降続々と明治の華族たちが開拓事業に乗り出していったのだ。
那須疏水の本流は、4本の分水路に分かれ、本流は16.3km、分水路の総延長は46.2kmに及ぶ。明治の開削作業には、今からは想像し難いほど、途方もない労苦が伴ったことだろう。
「当時、遠方からも多くの入植者がこの地に移り住み、開拓に勤しんだと聞いています」
那須野が原を横断する那須疏水は、今もこの地に潤いを与え、水道水や農業用水に利用されている。栃木県が今や本州1位の生乳生産量を誇る酪農立県になったことも、先人たちが開拓時代に築いた礎なしには語れないことだ。
「青木周蔵の思惑は推し量るのみですが、未開の地で収入の基盤を作りたいという経済的な思惑もあったと思います。しかし、農場開設からしばらくは赤字続きだったと聞いていますから、それだけではなく、西洋への憧れと荒野を切り拓くロマンが、当時の華族たちを突き動かしていたのでしょう」(ご担当者)
豊かな自然と共生し、大地の恵みを享受する大牧場
旧青木別邸から扇状地を横断する県道30号を走ると、窓外の平地に開拓の歴史が重なり合い、先人たちの息吹が心に染み入るような感覚が押し寄せる。
そうした余韻に浸りながら、MAZDA3のハンドルを山岳方面へ切り、“幻の山岳道路”といわれるドライビングルート「塩那道路」へ足を延ばしてみる。塩那道路は建設途中で廃道となり、塩原から那須まで通り抜けることはできないものの、塩原側の約8kmのルートはドライブを楽しめる(4月下旬~11月下旬の午前8時~午後6時のみ通行可能)。MAZDA3は、木々の茂る山道を駆け上がる。すると、視界が開け、紅葉に染まったパノラミックな山岳風景が視界いっぱいに広がる。その光景は圧倒的で、ダイナミックにして、息を飲むほどの美しさだ。
MAZDA3は山道を下り、再び那須野が原の大地へ。国道400号に入ると、アカマツの大木の群れが窓外に流れ始め、総敷地面積834ヘクタールという広大な牧場にたどり着く。明治時代に開設された「千本松牧場」である。
千本松牧場は、総理大臣を2度務めた松方正義が明治26年(1893年)に開設。それから1世紀以上を経た現在、牛の飼育数は約500頭、搾乳量は1日7~8tに及ぶという。牛乳、アイスクリーム、ヨーグルトなど、那須野が原の大地で育まれた数々は、どれも自然の甘みが活きた味わいだ。
傾き始めた陽に照らされ、キラキラと輝く牧草地で、牛たちが思い向くままに草をはむ姿。その雄大な景色を見渡していると、豊かな自然と共生し、大地の恵みを享受する現代に、原野を開墾した人々の思いが脈々と受け継がれていることを感じさせられる。
新たな感性が融和した、那須野が原の今


こうした自然や風土に魅了され、那須野が原周辺には栃木県外から移住してきた人たちが多いと聞く。「この地になじみのなかった華族や入植者がこの地を切り拓いてきた歴史は、県外からの人を快く受け入れるオープンな風土として、今も息づいているのだと思います」と、乙川さんはその由縁を紐解く。
そうした“今”に触れるため、MAZDA3は千本松牧場から県道55号を走り、黒磯方面へ向かう。やがて県道369号に入った一角には、移住者たちが新しい感性を注ぎ込んだレストランやカフェ、雑貨店などが軒を連ねる。マルシェ、レストラン、ゲストハウスを併設した複合施設「Chus(チャウス)」もその一つだ。
こうした自然や風土に魅了され、那須野が原周辺には栃木県外から移住してきた人たちが多いと聞く。「この地になじみのなかった華族や入植者がこの地を切り拓いてきた歴史は、県外からの人を快く受け入れるオープンな風土として、今も息づいているのだと思います」と、乙川さんはその由縁を紐解く。
そうした“今”に触れるため、MAZDA3は千本松牧場から県道55号を走り、黒磯方面へ向かう。やがて県道369号に入った一角には、移住者たちが新しい感性を注ぎ込んだレストランやカフェ、雑貨店などが軒を連ねる。マルシェ、レストラン、ゲストハウスを併設した複合施設「Chus(チャウス)」もその一つだ。


「私以外のスタッフは全員が県外出身者なんですよ」。そう話すのは、店長の森 俊崇さん。スタッフの皆さんは、那須地域の豊かな自然、美味しい食、そして地域の方々の穏やかな人柄に魅了され、鹿児島、熊本、新潟、福島、東京など、全国各地からChusに集ってきたのだという。
店内では、那須地域の農家が持ち寄った獲れたての野菜が直売され、瑞々しい野菜を取り囲むように、チーズ、バター、ヨーグルト、パン、トマトソースなどの食材がセンスよく並べられている。なかでも人気が高いのは、オリジナルのお菓子「バターのいとこ」。
「私以外のスタッフは全員が県外出身者なんですよ」。そう話すのは、店長の森 俊崇さん。スタッフの皆さんは、那須地域の豊かな自然、美味しい食、そして地域の方々の穏やかな人柄に魅了され、鹿児島、熊本、新潟、福島、東京など、全国各地からChusに集ってきたのだという。
店内では、那須地域の農家が持ち寄った獲れたての野菜が直売され、瑞々しい野菜を取り囲むように、チーズ、バター、ヨーグルト、パン、トマトソースなどの食材がセンスよく並べられている。なかでも人気が高いのは、オリジナルのお菓子「バターのいとこ」。


牛乳からバターを作る際、バターに使われるのは牛乳のほんの5%で、残りの90%は無脂肪乳として安価に販売される。Chusではその価値を高められないかと考え、無脂肪乳からミルクジャムを作り、バターが香り立つワッフル生地でサンド。ふわっ、しゃりっとした食感とともに、牛乳とバターのうま味が口に広がる逸品「バターのいとこ」を完成させた。
「パッケージに記した『GOOD LINKS, GOOD LIFE』という言葉には、地域、生産者、観光客の方々、そして私たちがつながれば、人生がより豊かになるという思いが込められています。Chusはそうしたつながりのハブになれるよう、周辺でレストランやカフェを営む仲間とも協力して地域を盛り上げています」(森さん)
牛乳からバターを作る際、バターに使われるのは牛乳のほんの5%で、残りの90%は無脂肪乳として安価に販売される。Chusではその価値を高められないかと考え、無脂肪乳からミルクジャムを作り、バターが香り立つワッフル生地でサンド。ふわっ、しゃりっとした食感とともに、牛乳とバターのうま味が口に広がる逸品「バターのいとこ」を完成させた。
「パッケージに記した『GOOD LINKS, GOOD LIFE』という言葉には、地域、生産者、観光客の方々、そして私たちがつながれば、人生がより豊かになるという思いが込められています。Chusはそうしたつながりのハブになれるよう、周辺でレストランやカフェを営む仲間とも協力して地域を盛り上げています」(森さん)
朝日に照らされた那須野が原に、情熱とロマンが投影
Chusのゲストハウス「YADO」に宿泊し、翌朝、日の出前にMAZDA3を走らせた。向かったのは、「那須高原展望台」。まだ暗く静まり返った駐車場にMAZDA3を停め、フロントシートに身をゆだねていると、やがて空が白み始める。MAZDA3を降り、展望台に立つと、遠くの那須連山がその輪郭を現そうとしていた。そして眼下には、那須野が原の広大な扇状地が朝日を浴びて浮かび上がってくる。
日本の近代化黎明期に、原野開拓に挑んだ明治の人々の情熱とロマン。そして、その礎を受け継ぎ、新たな文化とつながりを育む次世代の感性。明治貴族たちの描いた未来が、この地に投影され、新たな未来への足取りがたゆまず進んでいくことだろう。