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伝統を受け継ぎながらも革新を止めない広島には、ものづくりや町づくりに新旧の見事な融合が生まれている。「古き良き」だけでなく、新しい息吹が宿る場所や人を訪ねることで、その躍動と奥深さを体感してみたい。そんな思いに駆られ、MAZDA CX-8を走らせた。
広島から世界へ。日本を飛び出した「HIROSHIMA」と「マルニ木工」
最初に向かったのは、広島を代表する世界的家具メーカー「マルニ木工」の本社工場だ。アメリカ・カリフォルニア州にあるIT企業の本社には、マルニ木工の椅子が数千脚並んでいるという。そう聞けば、“世界的”という形容にも納得がいく。そのものづくりに触れるために広島の市街地から車で約40分、自然に囲まれた山間の工場へCX-8を走らせた。
工場内に入ると、工作機械が木を削り出している。職人による手仕事を想像していただけに、意外な光景だった。開発部の川上敏宏さんに聞くと、ミリ単位で木材を削り出すように緻密にプログラミングされているという。
「マルニ木工の創業は1928年。創業者の山中武夫は、木工が盛んな廿日市(はつかいち)市厳島(いつくしま)通称、宮島出身で、変幻自在に形を変えられる木に魅了されたひとりです。当時は職人が手づくりする時代。しかし、山中は海外で機械を学んだことから、実は早くから工業化を念頭に置いていました」
前述の世界的IT企業にも納品された「HIROSHIMA アームチェア」が発売されたのは、2008年のこと。デザインを託したのは、携帯電話や冷蔵庫をはじめ、日用品から電子精密機器、インテリアまで幅広い領域で活躍する世界的プロダクトデザイナー・深澤直人氏だ。当時、マルニ木工の職人たちは深澤氏によるミリ単位で弧を描くデザインを再現するのが「とても大変だった」そうだ。
しかし、機械の導入によって、それまで一部分を削り出すだけでも1時間以上かかっていたものが、20分足らずで寸分の狂いもなく成形できるようになった。月に80脚程度だった生産量も、年間で最大8000脚まで上げることに成功したという。
もちろん機械を操作するのは人であり、工場には多くの職人が腕を振るう姿があった。部材を研磨する磨きや仕上げの塗装などを巧みに施していく。扱うのがカンナやノミから工作機械に変わったといえども、職人たちの目利きと経験が技術の土台になることを、100年近く家具と向きあってきたマルニ木工は知っているのだろう。
90年代までのマルニ木工を支えていた、西洋の伝統的で格式高いデザインの『ベルサイユシリーズ』の家具は、生活様式の変化によって世の中のニーズと離れていったと、川上さんは振り返る。
「プログラミングという新たな製造工程と、深澤直人の先進的なデザインによって生まれた『HIROSHIMA』によって、新たなマルニ木工が始まりました。用途を選ばない『HIROSHIMA』がもつデザインの汎用性の高さが、人の心をも掴んだのです」
「プログラミングという新たな製造工程と、深澤直人の先進的なデザインによって生まれた『HIROSHIMA』によって、新たなマルニ木工が始まりました。用途を選ばない『HIROSHIMA』がもつデザインの汎用性の高さが、人の心をも掴んだのです」
マルニ木工は2028年に創業100年を迎える。創業時に掲げた「工芸の工業化」という思いのもと、職人の技術を最大限に活かすことでこの100年の伝統を紡いできた。それらをさらに進化させていくことで、次の100年へと継承していくのだろう。伝統を受け継ぎながら革新に挑み、世界に認められるメーカーへ成長した原点を垣間見ることができた。
マルニ木工は2028年に創業100年を迎える。創業時に掲げた「工芸の工業化」という思いのもと、職人の技術を最大限に活かすことでこの100年の伝統を紡いできた。それらをさらに進化させていくことで、次の100年へと継承していくのだろう。伝統を受け継ぎながら革新に挑み、世界に認められるメーカーへ成長した原点を垣間見ることができた。
マルニ木工本社を後にし、山間部を抜けて次の目的地へと向かう。山間部からやがて車窓に瀬戸内海の風景を望み、尾道市を目指して海岸線を爽快にドライブした。
マルニ木工本社を後にし、山間部を抜けて次の目的地へと向かう。山間部からやがて車窓に瀬戸内海の風景を望み、尾道市を目指して海岸線を爽快にドライブした。
呉市を過ぎ、途中に立ち寄ったのは、呉と尾道の半ばに位置する竹原市。「安芸の小京都」と呼ばれる「たけはら町並み保存地区」(重要伝統的建造物群保存地区)には、漆喰の壁と木格子が連なる旧家の街並みが続き、ドライブの合間に散策を楽しむのにぴったりだ。
風情ある石畳の道を歩きつつ、目に留まったのは「藤井酒造 酒蔵交流館」。創業1863年の酒蔵が仕込蔵の一部を地域の交流の場として開放した建物で、蔵に入ると日本酒や酒器、酒粕エキス配合の石鹸などが並んでいて、おみやげ探しには事欠かない。街歩きのお供に藤井酒造名物の「酒蔵アイスもなか」を味わうと、風味がふわりと口中に広がって美味。時代をさかのぼった感覚に浸りながら、竹原市を後にした。
風情ある石畳の道を歩きつつ、目に留まったのは「藤井酒造 酒蔵交流館」。創業1863年の酒蔵が仕込蔵の一部を地域の交流の場として開放した建物で、蔵に入ると日本酒や酒器、酒粕エキス配合の石鹸などが並んでいて、おみやげ探しには事欠かない。街歩きのお供に藤井酒造名物の「酒蔵アイスもなか」を味わうと、風味がふわりと口中に広がって美味。時代をさかのぼった感覚に浸りながら、竹原市を後にした。
尾道再生の発起人が生み出す、“ONOMICHI”の新たな息吹
海岸線をつたって東へ向かう。時折、視界が開けると瀬戸内の島々が車窓に飛び込んでくる。40分ほどドライブを楽しむと、尾道に至った。
尾道市は「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」として日本遺産に登録されている。志賀直哉や林芙美子をはじめ、文豪たちが物語の舞台として紡いだ文学の町であり、古寺名刹や重要文化財の建物の間を路地や坂道が入り組んで情緒ある景観をつくり出している。
造船の町として栄え、交易地として多くの人々が往来した尾道市は、愛媛県今治市との間をつなぐしまなみ海道の開通によって、サイクリストをはじめ多くの観光客が行き来する町へと変貌を遂げた。その象徴といえるスポットが「ONOMICHI U2」だ。
「ONOMICHI U2」は、昭和18年に建てられた船荷倉庫をリノベーションした複合施設。「U2」とはかつての「県営上屋(うわや)倉庫」の「2号」が由来だと、支配人の井上恵理子さんが教えてくれた。
「尾道の市街地から西側一帯は、尾道水道に面して県営倉庫が連なり、人の往来も少なく薄暗い倉庫街でした。また、尾道は広島への経由地であったり、しまなみ海道の発着点であったり、長らく“通過型の観光地”だったんです。私たちは、尾道の魅力は滞在しないと伝わらないという課題を抱えていました。そこで、地域の人も観光客も過ごせる“尾道の情報発信拠点”として、『ONOMICHI U2』を作り上げたんです」
倉庫の外観をそのままに、広大な箱型の空間全体が、尾道の町をトレースしている。施設内の真ん中を通る通路を小路・小道に見立て、その両側に宿泊施設「HOTEL CYCLE」をはじめ、レストランやカフェ、雑貨屋などが軒を連ねている。
尾道の滞在は「HOTEL CYCLE」にチェックイン。客室のインテリアには、漁船が灯す漁火をオマージュした照明や、伝統工芸の備後絣(びんごがすり)が使われたスツールなど、ひとつひとつに意味があり、ストーリーが詰め込まれている。
さらに、荷物を降ろし、改めてONOMICHI U2の館内を見渡してみると、建築の面白さが浮かび上がってくる。倉庫という建物内にテナントやホテルが立ち並ぶ「建築内建築」の構造で、「中のような、外のような」どちらともいえない空間に、どこか妙な心地良さも感じられた。
設計を手掛けたのは、建築家・谷尻誠と吉田愛率いる「SUPPOSE DESIGN OFFICE」。広島出身の2人は、ともに地元・広島のデザイン学校で学び、広島と東京を拠点にこれまでさまざまな商業施設や住宅、インテリアを手がけてきた。尾道の魅力を丁寧に取り込みながら、地域の人も観光客も分け隔てなく過ごせる場所として倉庫を再生し、尾道に新しい息吹を吹き込んだ。その魅力も、確かに通過するだけではなく、滞在することで見えてくるものだと実感できた。
翌早朝、尾道水道と対岸の島々が一望できるデッキスペースに立つと、静まり返った尾道水道に、船舶がゆっくりとさざ波を立てながら航行している。サイクリストたちは早くもペダルを漕ぎ出し、しまなみ街道のルートへと流れて行った。やがて朝日が美しく穏やかに差し込んできた。滞在してこそわかる尾道の魅力、その一端に触れることができた。